それでは聴いてください

フリートークからの曲紹介に繋げるラジオ形式のブログ

カルバン・クラインのコートを捨てた

丸4年着たカルバン・クラインのコートを捨てた。

 

首周りには大ぶりなファーのフードが付いているのでマフラー不要だし、丈はお尻が隠れるくらいなのでパンツにもロングスカートにも合う。色は黒だから、中に着る服は赤でも青でもショッキングピンクでもいい。勿論黒でもいい。

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重厚感のある生地は風の侵入を許さず、1月2月の真冬の寒さもこわくなかった。

 

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時間の無い朝、数着あるコートのうちどれを着るか迷ったときは必ずこのコートを選んだ。

これを選べば、間違いなかった。

 

そんな万能なコートを、捨てた。

 

4シーズン着倒したおかげで年季が入ったからだ。

といっても、目立った傷や汚れやあるわけではない。側から見れば現役だろう。

年季というのは、私のそれに対する依存のことである。私は服が好きで、当然コーディネートを考えるのも好きだが、マイペースなので常に時間に追われている。しかも優柔不断だ。

ここ数年、真冬にも暖かい日があったり、ある日突然雪がちらつくような寒さに見舞われたりと、気象の変化が激しい。なので、毎日その日の気温に合わせて服装を変える必要があるわけだが、気温に見合った服装を瞬時に判断することが意外と難しい(これは私に限ったことではないと思うが)。たとえば天気アプリで「10度」と表示されていたとして、それが暖かいのか寒いのか判断が付かない。そういうとき、カルバン・クラインのコートを選ぶ。jeanasisのファーのコートでは暑すぎるかもしれないし、rivet&surgeの裏地無しクマコートでは寒そうだからだ。

結果、何着もコートがあるのにカルバン・クラインばかり着てしまうことになる。好きで着ているのではなく、迷ったから着ただけという、ファッション好きならぬ思考回路だ。

最初に説明したが、このコートは大ぶりなファーのフードがついていて、見た目はとてもゴージャスである。本来なら派手なファッションをしたい気分の日に着るものだ。それを、無難だからという理由だけで着てしまってはせっかくのゴージャスさが台無しである。どんなに他人から、「コートかっこいいね。似合うね。」と褒められても嬉しくない。

 

私にとって、ファッションは感じるものだ。考えるものではない。その日に着たいものを着る。それがファッションだと思う。ただカルバン・クラインのコートは、あまりに使い勝手が良すぎて、気分ではなく利便性で着るようになり、私の中では「ゴージャスなコート」でも「アメリカで買ったブランド物のコート」でもなく、単なる「無難なコート」になってしまった。

 

飽きた、というのとは同じようで少し違う。

あんな完璧なコートには当分出会えないだろう。でも、ファッションを極めたいなら、「無難さ」から距離を置くべきだと思ったのだ。

 

これは多分、夫婦が何となく離婚する現象に似ている。