人生最後のバカ笑いをした日
毎年初夏になると、聖蹟桜ヶ丘を思い出す。
聖蹟桜ヶ丘を、というより大学4年当時のとある休日のことである。
その日私は同じ大学で同じサークルの友人、KとYに会っていた。べつにディズニーに行ったとか、何か特別なことをしたわけではない。
Kが一人暮らししているアパートにゴキブリが出て、そいつが冷蔵庫に入ったタイミングで扉を閉めてしまい、恐くて扉を開けられないから助けてくれと言われて「何それウケるーー」と小さな羽虫すら触れないのにノリで駆けつけたアホが私とYだ。
聖蹟桜ヶ丘駅から徒歩数分。Kの家は少し散らかっていた。ズボラというよりは、収納の仕方がわからなくて散らかってしまったんだろうなという感じで、ヘアアイロンやドライヤーなどがベッド上にあり、就寝時に邪魔だろうと思ったので何かアイディアを出したかったが何も思いつかず。
自分も一人暮らしをしてちょっと気を緩めたらこうなるだろうなと思った。
問題の冷蔵庫だが、KとYがキャーキャー言いながら扉をオープンするとブンッと茶色い物体が飛び出したので、中にあった食べ物飲み物は全て処分することに。
ついでに他の物も少し捨てることにしたようで、大きなゴミ袋を2つ3つ抱えたKとYはごみ捨てに出かけた。その間私は一人で掃除機をかけていた。片付けが苦手でも掃除機はかけられるでしょう、床が汚いとくしゃみが出るからさ、散らかっていても清潔感だけは保ちましょうよ、とまるで一人暮らしを始める未来の自分に言い聞かせるようにKの部屋の床を掃除した。
戻って来たKとYは真剣に掃除機をかける私を見て、「家政婦みたいw」と笑った。
「ねえ知ってる?『家政婦のミタ』って本名、三田灯(ミタ アカリ)』なんだよ!!」
「私じゃん!!」
みたいな会話をしたような気がする。(家政婦のミタさんとは漢字違いだが、私の本名は『アカリ』という。)
こうして文章に起こすと何の面白みもない会話だが、これだけで十分楽しかった。Kの部屋を掃除する間だけで何度爆笑したかわからない。
一通り用事が終わると私たちは駅の近くのスタバに行った。
Kが、「お腹すいたからスタバ行こう」と言い出したからである。お腹が空いたらスターバックス、というのはKらしいパワーワードだが、まあたしかに甘いものを飲むとお腹は膨れる。3人ともホイップクリームたっぷりのフラペチーノを注文した。よく覚えていないが、どうせスタバでも喋り倒したんだろう。
私が初夏になると思い出すのは、スタバに行く前後に歩いた、聖蹟桜ヶ丘の住宅街の坂である。
「カントリー・ロード」の聖地巡礼のつもりだったが、どの場所がどのシーンなのかほとんどわからず、景色を見るよりただただ喋ることに夢中だった。大した内容もない空っぽな会話で、大声で笑っていた。
そのときにふと、賢者タイムではないけれど、こんなふうにただ、今、この瞬間だけを楽しんで笑っていられる時間にももうすぐ終わりが来ること、これから先どこに向かうのかをそろそろ決めないといけないこと、なかなか内定の出ない就職活動の存在を思い出してしまった。
来年の今頃、この二人は、自分は、どこにいるのだろう。
そもそも、居られる場所を見つけられるのか。私はいつまで、笑えるんだろう。
いやいや、この先たとえ今一緒にいる二人が自分のそばからいなくなっても、また新しい友達ができるだろうし、仕事に追われる日々が続いても、これだけこだわりの強い私だから、きっと何か楽しみを見つけられるはずだ。
そう考えることもできてはいたが、やはり、笑えなくなる日へのカウントダウンが始まったような気がしてならなかった。
それからふた月もしないうちに、私は本当に笑えなくなった。
Yもついに内定を取り、どこにも受からず就活を続けているのは私だけになった。(Kは大学院へ進学するので就活はしていなかった。)
誰も自分を必要としない。まあそうだよね、こんなゴミクズ、誰も欲しくないよな。
母からは、
「お前みたいな(地味な)やつがテレビだとか派手な業界は受けるな、営業?できるわけないでしょ。事務にしな。金融は?エントリーしなさいよ。それか従業員数が5人くらいで誰もやりたがらない仕事なら受かるんじゃない?」
などと言われ、元々低かった自己肯定感が地の底についた。
「死にたいわけじゃないけど、消えたい。」と母に言った。
「じゃあ〇〇(近所のマンション)から飛び降りれば?あ、電車に飛び込むのだけはやめてね。迷惑だから。」
死ぬのはこわかった。
マンションから飛び降りるのも。自分の残骸を見られるのも。
せめて、もっと楽な死に方はないかと考え、私はYにLINEで聞いた。
「都内で、どこか景色の良いところ知らない?」
「うーん。ビアガーデンかな。」
ビアガーデンね、ちょうどいいじゃない。きっとまあまあな高さがあるだろう。
たくさん呑んだくれて、頭がふわふわしてきたら、ノリで飛び降りよう。
それならきっと、夢か現実かわからないまま死ねるだろう。そう思った。
いつにしようかなあ、お金ないしなあ(就活の交通費が嵩んでいたので遠くへは行けない)、やっぱり近所のマンションにしとこうかなあ、来週はどうだろう、ちょっとこわいな、
てか面倒臭いな・・・
そうして後回しにしているうちに、死ぬ計画はフェードアウトし、夏の終わりに内定が出た。
夏休み明けにゼミ合宿で山梨の温泉に行ってはしゃぎ、秋の学祭では大きなステージでYを含む有志のチームでダンスを披露した。
進路が決まり、再び学生生活を楽しめる状況と精神状態には戻ったが、まるで遊園地の閉園時間が迫ってきているときのような寂しさや、漠然とした不安はうっすらと残り続けた。
5月のある日に思った、「今、この瞬間だけを楽しんで笑っていられる時間にももうすぐ終わりが来る」という直感は的中した。社会人になってから数年の間、いわゆるバカ笑いをしたのは片手で数えられるくらいしか無く、そのバカ笑いでさえも短時間で冷めてしまうほどだった。論理的に説明できなくとも、直感の方を信じた方が良いというのはこういうことなのだろう。
心理学科を出たわけでもない、カウンセラーや医師の資格も無い私が断定することはできないが、うつだったのではないかと今になって思う(実際に通院して精神安定剤を服用していた時期もある)。
「私、いつかうつ病になると思うんだよね」と学生時代、友人に漏らしたことがあったが、はるか昔から火種があり、いつかそれが発火してしまうことを無意識に感じ取っていたのだろう。
そんな精神状態も長い時間をかけて少しずつ安定していき、最近はもう笑った回数を数えなくなった。久々に笑ったな〜などと思わなくなったのは、笑いが再び日常に定着したからだろう。とはいえ、うつ(仮)の感覚を記憶しているため、大学4年の頃聖蹟桜ヶ丘に行った時と同じ心にはもう戻れない。あれは一点の曇りもないバカ笑いができる、人生最後の日だった。
だからこれからは、新しい喜びや楽しさで傷跡を塗りつぶしていく。
※この記事は、学生時代のくだりまでは2019年に執筆したもので、どこに着地したかったのかイマイチ思い出せないのだが、もうすぐ笑えなくなるという謎の直感が当たってしまったことと、それが寛解した、ということを言いたかったのだと思う。2019年は一人暮らしを始めたり、1年ぶりに舞台出演ができたりと良い変化がたくさんあったので、楽しいという感情を取り戻した嬉しさと感慨深さでこんな記事を書いたのかもしれない(尤も、2023年現在思い出してみると、2019年はまだまだ不安定だったけれども)。